源平最後の決戦場となった壇ノ浦は、下関と門司との間の狭い関門海峡の一部です。
屋島から敗走してきた平家勢は、知盛の領地であった長門の彦島を拠点として、最後の決戦を
挑みます。平家方は総勢一千余艘を二手に分け、五百余艘を先陣に、三百余艘を第二陣に、
第三陣に平家の公達の乗船二百余艘が続くという布陣。
これに対して源氏は、紀州の熊野水軍の二百余艘、阿波の河野水軍の百五十艘を主力として
三千余艘。 数の上では源氏が優勢ながら、大きな唐船を有する平家が有利と思われました。

両軍は、壇ノ浦の海上で決戦の火蓋を
きりました。
平家は最初の精兵五百余人を先頭に
立て、矢を乱射、源氏方を圧倒し優勢
でしたが船を操る水夫や舵取りを狙い
撃ちにするという義経の戦術と、平家陣
営の阿波民部重能らの裏切り(息子が
源氏にとらえられたため源氏に内応)
によって、形勢は逆転。
二位の尼(清盛の妻)は、八歳の幼帝を
抱いて投身。一門の人々も次々と身を
投げて命を絶ち、平家は滅びました。
この戦いにのぞみ、屋島の戦いでおくれを取った梶原は「今日の先陣はわたしにまかせてほしい」
と申し入れたのですが、義経は聞き入れず、梶原の怒りとうらみはさらに増大してゆきました。
今回は「幼帝投身」を中心に取り上げます。
平家物語絵巻より

平家の船は潮にさからい
源氏は潮にのって進み、
両軍はは近づいて、激しい
戦いになりました。この時
平家にその人ありとといわ
れた悪七兵衛景清は
「義経は色白の小男、小脇
にはさんで、海につけようぞ」
と叫び義経をねらいます。
平家勢は三つの陣から一斉に
矢を射掛けてくるので先頭の義経は一向に進めません。この後、最後の覚悟を決めた豪の者
能登守教経も義経と組んで死出の道連れにしようと探し回り、追いかけます。義経はかなわぬと
みて、身軽に船から船に飛び移り、ついてゆけぬ教経は、悔しい思いで義経を追うのをあきらめ
30人力の兄弟を左右にかかえて、海に飛び込みました。この状況を「義経の八艘とび」と表現さ
れています。両軍必死に戦う中で、平家方に裏切りが出、水夫や舵取りが殺されて、船を動かす
ことも出来ず、新中納言知盛は小舟に乗って天皇の御用船にまいり「戦いは、もはや最後と思わ
れます。見苦しいものはみな海に捨ててください」といって船の中を走って、掃いたり拭いたりして
自ら掃除しました。

二位の尼は、これをご覧に
なって、日ごろから心にきめ
ておられたことなので、
神璽を脇にはさみ宝剣を腰
にさし、幼い安徳天皇を抱き
奉って「わが身は女なれど、
敵の手にかかりたくありませ
ぬ。君のお供をして参ります。
帝を思われる方は急ぎ続き
給え」と船端へ歩み出られま
した。
帝は御年八歳、お顔もあたりに輝くばかりに端正でかわいらしいお姿で、途方に暮れたご様子で
「尼ぜよ。われをどこへつれてゆくのか」と仰せられるので、二位の尼は幼い君にむかい、涙を抑えて
「君は前世で立派な行いをなさったので、この世で帝位につかれましたが、今は悪い運命になってしま
われました。どうぞ東に向かって伊勢大神宮においとまごいをなさいませ。ついで、西方浄土にお迎え
いただくように西を向いて念仏をおとなえください。この国はこころうきところでございますので、極楽
浄土というところへお供して参りたいと思います」泣く泣く尼が申しましたので、天皇も涙を流されて、
いわれるままに、小さく可愛い手をあわせられました。二位の尼はしっかりと抱き申して「波のしたにも
都がありましょうぞ」とおなぐさめして、そのまま、はかりしれぬ海底にはいっていかれました。
天皇の母君、建礼門院も続いて身を投げましたが源氏がたの武士に熊手で引き上げられました。
清盛の弟、経盛・教盛兄弟は手を取り合って、資盛・有盛・行盛もおなじく、鎧の上におもしの錨をつけ
て、沈みました。知盛も乳兄弟と手を取り合って、鎧を重ね着して投身しました。
------------------------------------------------------------------------
<平家断絶> 一の谷の戦いの後、清盛の五男重ひらは自害しようとしたところを、梶原源太景季に
生け捕られ、都大路を引き回され、奈良の寺院を焼き払った首謀者として詰問された後、首を切られ
ました。一方、維盛は、都に残した妻子のことが心から離れず、ひそかに屋島を抜け出しましたが、
会いたいという願いがかなう筈もなく、高野山で出家した後、那智の海に入水して果てました。
平家の総大将宗盛は、わが子のことが気がかりで壇ノ浦で死に遅れ、不覚にも源氏方にとらえられ
、
宗盛親子も都大路を引き回された後、首を切られました。
さらに源氏は平家一門の断絶を目指して、維盛の子、六代(平家の基盤を作った清盛の祖父正盛か
ら六代目の正嫡という意味で六代と呼ばれました)を探し出し処刑しようとしましたが文覚上人の
嘆願で一度は助けられたのですが、十余年後に再び捕らえられ、既に高僧として行いすましておられ
たのに首を切られました。この六代の死によって、平家の家門は断絶しました。
--------------------------------------------------------------------------